ウェブ1丁目図書館

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西郷隆盛を理想の政治家に育てた2人の人物

誰もが知っている歴史上の人物。その代表的存在と言えるのが西郷隆盛ではないでしょうか。

池波正太郎さんの小説「西郷隆盛」を読むと、西郷隆盛が理想の政治家であったことがわかります。実際の西郷隆盛は、池波さんが描いた西郷隆盛像とは違うのかもしれません。でも、この小説に登場する西郷隆盛は、間違いなく理想の政治家です。

若い頃に磨かれた人間性

小説は、征韓論を政府に受け入れられず、鹿児島に西郷隆盛が帰った時の大久保利通伊藤博文との会話から始まります。

「西郷な、思いきりが早すぎて困る、困る」
と、大久保利通が、
「ありゃ、若いころ禅をやっていた影響じゃ。いつもいつも思いきりが早すぎる」
ちょうど傍にいた伊藤博文になげいたという。(5ページ)

西郷隆盛は、16歳ころに禅に強くうちこみ、それが、体の中にしみこんでいたということです。

また、西郷隆盛は、郡奉行の迫田太次右衛門利済の影響を受けたとのこと。迫田は、役人が贅沢をするとその国は亡びると常々隆盛に言っていました。そして、藩主から褒賞を受ける時、「のぞみを申せ」と言われても、庭の松の木を支えるための丸太棒がいただきたいと答えたそうです。

「ほしいけれども、国のために、また、みずから正しくありたいと思うがために耐えているのだ。(中略)西郷、欲には切りがないもじゃし、欲をみたすこともまた貧することと同様に人の心身をさいなむものごわすよ」(10ページ)

若いころに迫田利済と出会ったことが、その後の西郷隆盛の人生を決定したのかもしれません。自分の欲よりも国のことを最優先に考えるという西郷隆盛の政治家としての理想は、この時に芽生えたのでしょう。

島津斉彬との出会い

西郷隆盛に大きな影響を与えた人物は、他に薩摩藩主の島津斉彬がいます。迫田利済は無名ですが、島津斉彬は有名な人物なので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

島津斉彬開明的な殿さまとして知られています。彼は、外国からの開国の圧力に対抗するために外国の文明を採り入れて軍艦を建造したのですが、、こういった発想は、当時の日本人にはなかったものです。また、薩摩藩外様大名だったので、幕政に口出しすることはできなかったのですが、国の存亡がかかっている時世だったことから、積極的に幕府に改革を訴え、外圧をはねのけようと懸命につくしました。

僕が、島津斉彬が立派な政治家だったということを再確認したのは、以下の文章を読んだ時です。

大金は大事業に必要なり。ゆえに巨万の富といえども惜しんではならぬ。零細な小金はいくら倹約をしても天下のため害になることはない。だから小金は惜しむべである(59ページ)

今の政治家でこのようなことを言っている人はいるでしょうか?景気対策と口にする政治家は、個人消費を増やさなければだめだといったことばかりを述べていますよね。でも、個人が持っている財産なんて、島津斉彬が言うところの小金でしかありません。だから、個人が節約して貯蓄を増やしたところで、経済に害を与えることはないのです。

それよりも、国民から集めた巨額の税金を大事業に使うことの方が大切です。巨万の富を惜しんでいては、社会に悪影響を及ぼします。

150年以上前にそう言ってた政治家がいたのに今の政治家はそれを見習おうとしてないように思えますね。

贅沢三昧の政府高官たち

江戸幕府が倒れ明治時代になると、西郷隆盛は、新政府の中枢を担い、様々な改革を行っていきます。廃藩置県は、全国の大名から領地を取り上げる行為なので、そう簡単には実現しそうにないように思えましたが、西郷隆盛の手腕により、藩主たちから大きな不満も出ず、実現することができました。

しかし、このような西郷の働きをよそに新政府の要人たちは、高額な月給をもらい贅沢三昧の日々をおくっていました。当時は150円で家が建つといわれた時代だったにもかかわらず、政府の高官たちの月給が200円だったというのですから、彼らが、どこかの貴族のようなぜいたくな生活をしていたことは容易に想像ができます。

当然、西郷隆盛の月給も多かったのですが、心の中では月給を10分の1にしてほしいと思っていました。しかし、当時の状況から、そのようなことを言いだすことはできなかったようです。

日本人全体のこころの内に、あの維新革命の[大事]がなっとくされるような政府となり、財政もととのって後に、月給も上げたらよい、大きな邸に住んだらよい・・・・・と、西郷は考えるのだ。正論である。(167ページ)

征韓論に敗れ下野、そして西南戦争

西郷隆盛が明治政府から去ったのは、彼が主張する征韓論が政府に受け入れられなかったからといわれています。征韓論は、簡単にいうと、朝鮮王朝に開国を迫るということです。

朝鮮半島は、日本の国防にとって地理的に重要なところです。朝鮮の後ろには清国があり、さらにロシアがいます。もしも、朝鮮半島が清国やロシアの手の中に落ちてしまったら、日本が大国から侵略される危険性が強まります。だから、西郷隆盛は、朝鮮王朝を開国させなければ、日本も危うくなると主張したのです。

これに対して、岩倉具視大久保利通は、今は国内のことに力を入れるべきで、外国と戦争している時ではないとして、西郷隆盛征韓論を否定します。

そもそも西郷隆盛は、韓国と戦争するとは言っておらず、話し合いで開国させようと考えていました。でも、大久保利通たちは、彼が朝鮮に単身で話し合いに行けば、きっと殺されてしまうと考えていたので、征韓論に賛成することはできません。それでも、西郷隆盛は、自分の命に代えても、朝鮮王朝を開国させなければ、日本の将来が危うくなると主張して譲りませんでした。

結局、政府は征韓論を認めず、西郷隆盛は明治政府を去ることになります。

その後、鹿児島に帰った西郷隆盛は、政府に不満を持つ士族たちを抑えることができず、西南戦争を起こし、城山で自決しました。


この小説の最後の方で、池波さんは以下のことを書いています。

あらゆる種類のメカニズムが文明の進歩?と共に複雑になればなるほど人間の血は冷え、幸福は消える。
しかし、その人間の熱い血がたぎるままにまかせておいても、人間は不幸になるのだ。
ここのところの[かね合い]を調節するのが[政治]というものなので、調節という中間のとりなしが拙劣をきわめる明治以後の日本人は[政治]においてすら黒か白か、どちらかにきめなくてはおさまらぬようになってしまった。現代においてはこの悪癖は度しがたいものとなりつつある。(244ページ)

人の体を流れる血を燃え上がらせたり冷ましたりするのが政治家の役割なのに現代の政治家は、燃え上がらせるだけ、あるいは冷ますだけしかしないということなのでしょうね。

鍋の中の湯がわき立ち溢れそうになれば火を緩くし、冷めてきたら火を強くするといった調節が必要になりますが、そのような調節をできる政治家は、残念ながら、西郷隆盛以後現れていません。

西郷隆盛 (角川文庫)

西郷隆盛 (角川文庫)