ウェブ1丁目図書館

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奥羽越列藩同盟の瓦解は仙台藩の失策が大きかった

1868年に起こった戊辰戦争は、1月の鳥羽伏見の戦いから翌年の五稜郭の戦いまで続きました。

戊辰戦争は、初戦の鳥羽伏見の戦い薩長を中心とした新政府軍が旧幕府軍に勝利したことが大きく、その後の戦いも新政府軍の優位は変わらずに函館五稜郭旧幕府軍が降伏し終わりを迎えます。

戊辰戦争の最中、会津藩を中心に東北諸藩が薩長とは別の政府を作ることを考え出します。そして、この時に東北諸藩が協力し合うことを約束したのが奥羽越列藩同盟です。東北諸藩が団結すると大きな勢力となったため、薩長中心の新政府に十分対抗できる要素を持っていました。しかし、両者の戦いは薩長に軍配が上がり、明治以降の東北諸藩は「白河以北一山百分」と嘲られることになります。

白河口の敗戦

奥羽越列藩同盟が、新政府軍に敗れる原因となった戦いは白河口の戦いとされています。

会津戦争に関して多くの著書を持つ星亮一さんは、その中の「奥羽越列藩同盟」で、白河口の戦い薩長軍にとって「戊辰戦争を通じて稀に見る大勝利」だったと述べています。

列藩同盟軍は、薩長軍の3倍の兵力を持って白河口の守りについたのですが大惨敗しました。その原因として、まず考えられるのは武器の差です。新式の銃や大砲を持つ薩長軍に対し、列藩同盟軍は旧式の銃砲を装備し、中には弓槍の兵もいました。

しかし、列藩同盟軍が惨敗したのは、武器の差よりも指揮官の選任にあったと考えられます。白河口の戦いで列藩同盟軍の指揮をしたのは、会津藩の家老の西郷頼母でした。家老が指揮するのなら問題なさそうに思えますが、西郷頼母は戦争経験が全くない素人です。その素人に重要な戦局を任せた時点で列藩同盟軍の白河口での敗北は決まっていたと言えるでしょう。

仙台藩の失策

白河口を新政府軍に奪われた列藩同盟軍は、奪回作戦を試みます。しかし、初戦の敗北が大きく、なかなか白河を取り戻せません。

このような状況の中、列藩同盟に参加していた仙台藩が失敗を犯します。

まだ奥羽越列藩同盟が成立する前、仙台藩に奥羽鎮撫総督府九条道孝薩摩藩士の大山格之助長州藩士の世良修蔵とともにやってきました。彼らは、仙台藩会津藩を討伐するように命じましたが、その高飛車な態度を不快に思った仙台藩士が世良修蔵を暗殺します。そして、九条道孝大山格之助を藩内に止めおきました。

その後、新政府は、東北の情勢が怪しくなってきたことから、どうやら九条総督が仙台で孤立したと判断し、急きょ佐賀藩士の前原誠一郎に佐賀藩小倉藩の兵330余を与え仙台に派遣しました。この時、すでに薩長と戦闘態勢に入っていた仙台藩では、玉虫左太夫や若生文十郎らが前原軍を打ち払うべきだと主張しましたが、主席奉行の但木土佐が前原の仙台入りを認め九条総督に会わせることにしました。

九条総督は、仙台藩が手に入れた掌中の珠である。九条総督を仙台に止めて置けば仙台藩薩長新政府に無言の圧力をかけることができた。場合によっては九条総督を前面に立て、薩長との政治折衝に臨むことができた。
しかし列藩同盟の最高指導者、但木土佐に、その政治感覚が欠けていた。仙台藩は掌中の珠をみすみす盛岡経由、秋田に逃してしまうのである。
(122ページ)

この時の仙台藩の失策が、奥羽越列藩同盟の敗北を決定づけたと言っても過言ではありません。

秋田藩に逃れた九条総督と大山格之助は、秋田藩が新政府に味方するよう説得します。すでに列藩同盟に参加していた秋田藩でしたが、藩内には新政府に味方すべきという意見もありました。その時に九条総督がやってきたのですから、藩論は新政府に傾き列藩同盟離脱が決まりました。

白河奪回作戦が不可能に

秋田藩の裏切りは、奥羽越列藩同盟に大きな打撃を与えました。

会津藩仙台藩庄内藩は西から攻めてくる薩長軍と戦わなければならないのに自分たちの北に位置する秋田藩が裏切ったので、その対応もしなければならなくなりました。腹背に敵を持った列藩同盟軍は、仙台藩庄内藩秋田藩との戦いに備えるため、白河出兵を取りやめます。

こうなると、薩長軍は会津藩の城下になんなく迫ることができます。

会津若松城に籠城することになった会津藩でしたが、越後長岡藩が新政府軍に敗れ、列藩同盟に参加していた諸藩も戦意喪失し孤立することになります。最終的に会津藩が新政府軍に降伏したことで、会津戦争終結。列藩同盟に参加した東北諸藩の人々は、苦痛の明治時代を生きなければなりませんでした。


奥羽越列藩同盟が成立した当初は、薩長中心の新政府に対抗できると考えられていました。もしも、白河口の作戦失敗や仙台藩の失策がなければ、明治時代は国内に東西2つの政府が存在する時代になっていたかもしれません。