ウェブ1丁目図書館

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遷都は旧都に大打撃を与える

千年の都の京都は、平安遷都以降、政治の中心、文化の中心、経済の中心として発達してきました。

しかし、京都の発展は順風満帆なものではなく、千年の間に様々な戦乱に巻き込まれ、そのたびに荒廃と再建を繰り返し現在にいたっています。特に京都に打撃を与えた事件として、南北朝の騒乱や応仁の乱がありますが、東京遷都も京都を衰退させました。

人口は3分の2に減少

京都には、794年の平安遷都以降に人が住み始めたのではありません。2万年以上前から人が住みついていた痕跡が残っているので、京都はかなり古くから文化が発達していたと考えられます。

人口は、その後も徐々に増えていきましたが、明治2年の皇室の東京移転により急激に減少しました。

京都の文化に詳しい脇田修さんと晴子さん夫妻の共著「物語 京都の歴史」によると、近世中後期の京都の人口は35万人前後だったのが、明治5年には洛中・洛外総戸数67,211戸、人口は約24万5千人と3分の2まで減少したということです。

明治政府は、古いしきたりに囚われず、人心を一新し、新しい政府への展望を開くために必須のことと考えたため、首都を京都から東京に遷すことにしました。京都町民は、東京遷都を知って精神的な打撃を受けますが、それ以上に経済や文化への悪影響も心配されました。

そのことが、京都から立ち去らせる人を増やし、10万人以上の人口減少となったのでしょう。もちろん、幕末の動乱期に京都から逃げ出した人もいると思いますが、まだ戦乱の傷が癒えない時点での東京遷都が京都の経済に大打撃を与えたことは容易に想像できます。

このような状況の中、2代目の京都府知事槇村正直は、殖産興業に力を入れ、西陣織や清水焼などの伝統産業も新たな技術の導入で発展を遂げました。さらに3代目府知事北垣国道の時代に京都の近代化が加速します。

彼は商工会議所設立を認め、とくに青年技士田辺朔郎を起用して琵琶湖疏水を建設し、輸送と発電を意図して、同二十四年には蹴上発電所を設けて、西陣など市内への電力を供給するなどの施策を行った。これを動力に、明治二十八年、日本最初の路面電車が市街を走った。またこの年は平安奠都一一〇〇年にあたり、祭礼がおこなわれ、平安神宮が創設された。
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京都の街に古風な印象を持つ人が多いと思いますが、市街を歩けば、いたるところに近代建築物が建っていることに気付きます。お寺の隣にレンガ造りの大学が建っているかと思うと、境内に大きな水路があるお寺もあります。

これらの建築物は、北垣国道の時代に造られたものが多く、今では観光名所化しています。

宗教や文化に与えた影響

明治政府の政策は、京都の宗教界にも大きな影響を与えました。

江戸時代以前は神仏習合が普通だったのですが、明治政府により神仏分離が命じられると、各寺社はその対応に追われます。

八坂神社も延暦寺末から脱し、祇園社感神院の呼称も八坂神社と改めたし、愛宕山本地仏であった勝軍地蔵を放出して、愛宕大権現から愛宕神社になり、北野天満宮は北野神社として、菅原道真天台座主尊意から伝えられたとして本殿内陣に安置していた「御襟懸守護の仏舎利」を山国(京北町)の常照皇寺に移すなど、各社において対応措置が取られた。
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特にお寺は、廃仏毀釈版籍奉還の影響もあり、大きな打撃を受けました。清水寺は15万坪以上あった境内を1万3千坪まで縮小され、建仁寺も跡地に花屋敷などがつくられ、他に廃寺となる寺院も多くありました。さすがに明治政府も急激な経済変動を避けるために一定の給付を行いましたが、明治17年に全廃されます。

さらに明治政府の近代化政策は庶民信仰にまでおよび、迷信などの取り締まりとして神子(みこ)、巫(かんなぎ)、神おろし、市子(いちこ)などを禁止し、大日堂や地蔵堂などの祠堂も無益な寄付をさせ人々を惑わせるとして取り除きが命じられました。

そして民間習俗でも、門松の停止、三月の雛祭、五月の節句、七夕の飾りも禁じ、大文字の送り火や六斎念仏、精霊送りなども廃止にした。しかしこれらは深く人々の生活のなかに入っていたから、その後も存続し、現代においても行われ、大文字などは京都の夏の風物として賑わっている。
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明治政府が禁止した大文字の送り火などは、今では海外からの旅行者にも人気の行事となっており、京都市の経済や財政に良い影響を与えています。もしも、この時にこれら民間習俗が完全になくなっていたら、現代の京都の経済はどうなっていたでしょうか。

京都は、古い文化も残し近代の文化も受け入れてきたからこそ、東京遷都以降の衰退から立ち直れたのでしょう。