読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

挑戦と失敗を繰り返して海外G1を勝利した調教師の哲学

スポーツ

競馬をされる方なら、藤澤和雄調教師をご存知でしょう。

最近は、なかなかG1を勝つことができていませんが、毎年、数多くのレースを勝っている一流の調教師です。

現在、日本の競走馬が世界に通用するようになっています。昔は、外国の競走馬に日本の馬が勝つことなんてできなかったのですが、藤澤さんの海外挑戦の功績もあり、毎年のように日本馬が海外で活躍するようになっています。

藤澤さんの管理馬で初めて海外のG1に勝ったのがタイキシャトルです。著書の「競走馬私論」では、藤澤さんがホースマンになってからタイキシャトルで海外G1を制覇するまでの数々の挑戦と失敗が綴られています。

若き日の海外留学

藤澤さんは、1973年に22歳でイギリスのニューマーケットに留学します。留学先は、プリチャード・ゴードン調教師が運営する厩舎(きゅうしゃ)です。

調教師の仕事というのは、簡単にいうと、馬主から預かった競走馬をレースに走らせて賞金を稼ぐことです。調教助手や厩務員といったスタッフを決められた人数雇い、厩舎を運営していきます。それは、会社の社長と同じと言ってもよいでしょう。

競走馬の調教というと、2頭から3頭の馬を走らせている映像を見ることが多いですが、それはレースが近づいた馬だけで、普段は、それほどスピードを出さすに集団で走らせます。横に並んで走らせることもあれば一列縦隊で走らせることもあります。こういった集団調教は、競走馬に勝手なことをさせないように、そして、騎乗者の指示に従わなければならないことを教え込むためです。

当時、日本では、競走馬をビシビシと鍛えることが当たり前と考えられていました。そのため、日本の競走馬は徹夜明けの受験生のように元気がなかったそうです。それに比べて、ニューマーケットの馬たちは、体から力がみなぎっているラグビー選手のような体つきをしていたそうです。

その違いは、日本とイギリスで、馬の接し方が異なっていたことが理由です。

ある日、藤澤さんは、ジョン・マギーという同僚に「ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース」という言葉を掛けられます。藤澤さんは、特に暗い性格ではなかったものの4年間の留学生活は、それほど明るいものではなかったそうです。それを察してかどうかジョンが、藤澤さんに掛けた一言は、後の人生に大きな影響を与えることになります。

ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース-いつもおおらかに笑っていられる人間が幸せな馬を作れる。ジョン・マギーの言葉に、私はある種のカルチャー・ショックを受けた。自分に最も欠けていることを明確に、しかも一言で指摘されて、目の覚める思いがした。(45ページ)

痩せすぎている日本の馬

4年の留学から帰国した藤澤さんは、中山競馬場の菊池一雄厩舎で調教助手として働くことになります。

中山で見た競走馬たちは、ニューマーケットにいた馬たちとは違い、どの馬も痩せすぎているように見えました。日本での調教は、馬をギリギリまで仕上げてレースに出走させることが主流だったことが理由です。もちろん、それだけでなく十分に飼葉を与えていないことやストレスをかけすぎていることなども原因として考えられます。

藤澤さんによると、馬が痩せすぎるのは、ホースマンの考え方が大きいと指摘します。

馬にとって何が快適か、馬が何を要求しているか、何をしてもらえば馬はうれしいのか。そうしたことに充分な注意を払わないまま、一方的に人間の要求を押し付けていれば、馬は痩せてしまう。その馬にとって快適でない部分が厩舎(調教師も含めて)にあり、それが痩せるという現象で体に出ているのである。(58ページ)

要するに人間の都合に合わせて馬を飼育していることが痩せすぎてしまう理由ということですね。

菊池厩舎でも、馬よりも人間の都合が優先されることがありました。それは、飼葉を与える時間が、馬ごとにバラバラということです。ある馬は早く飼葉を与えられるのに、別の馬は遅れて飼葉を与えられます。これは、馬を世話する厩務員が、自分の都合の良い時間に馬に飼葉を与えていることが原因です。

飼葉を食べている馬の隣で、いつまでも飼葉をもらえず待っている馬の気持ちを考えるとどうでしょうか?当然、ストレスがかかっているはずです。だから、藤澤さんは厩務員たちに飼葉は、同じ時間に与えるようにとお願いします。すると、年長の厩務員の方が「よし、わかった」と言ってくれたことから、以後、飼葉は同じ時間に与えられるようになりました。

この後、菊池一雄さんは体調を崩され、厩舎の全権は藤澤さんに任され、カツトップエースという馬で、皐月賞とダービーに勝利します。

二人のホースマンとの出会い

それから間もなくして菊池調教師が亡くなったため、厩舎は解散します。そして、藤澤さんは、野平祐二厩舎で調教助手として働くことになりました。

ある日、シンボリ牧場の経営者の和田共弘さんが、厩舎に1頭の馬を連れてきました。それは、シンボリルドルフです。シンボリルドルフは、皐月賞、ダービー、菊花賞を無敗で勝った三冠馬なので、競馬に興味がない方でも、その名を聞いたことくらいはあるでしょう。

このような一流馬に出会うかどうかで、ホースマンのその後の人生は大きく変わります。弱い馬ばかりを預かっていても、なかなかレースに勝つことはできませんし、何より厩舎の他の馬を引っ張っていくリードホースの存在なくして、強い馬は育ちません。

もしも、藤澤さんが野平厩舎で働くことがなく、和田さんとも出会わなければ、シンボリルドルフのような超一流馬と接する機会も訪れなかったかもしれません。

厩舎経営に欠かせないリードホースの存在

調教師試験に合格し、調教師となった藤澤さんは、厩舎を開業します。

しかし、新人調教師に良い競走馬を預ける馬主はあまりいないので、最初は、弱い馬たちを預かって厩舎経営をしていくしかありません。今でこそ、年間50勝もする藤澤厩舎ですが、開業当時は、他の新人調教師と同じく弱い馬たちばかりでスタートしています。

弱い馬たちを育てるためには、強いリードホースが必要です。馬は群れで生活する動物なので、優れたリーダーがいれば、他の馬たちもそのリーダーに似てくるからです。そこで、開業当時の藤澤厩舎に馬を預けていた馬主さんが、リードホースとなる馬を大井競馬場から購入してくれました。その馬の名はガルダン。

ガルダンは高齢馬だったものの一番上のクラスのオープンに在籍する実績のある馬だったので、リードホースとしての役割を十分に果たし、しかも、藤澤厩舎に初勝利までもたらしてくれました。このガルダンの背中を見て育った馬たちが、次のリードホースとなり、そして、それ以降の世代の馬たちにも良い影響を与え続けています。

3頭目の遠征でつかみ取った海外G1勝利

藤澤厩舎が初めて海外遠征をしたのは1995年のことです。

最初に遠征した馬はクロフネミステリーという牝馬です。クロフネミステリーは下級条件の馬でしたが、海外のG2競争に出走することにしました。当然、なぜクロフネミステリーで海外遠征するのかという疑問の声もありました。藤澤さんが、他の実績のある馬ではなくクロフネミステリーを選んだのは忍耐力が強いことが理由でした。

海外遠征は、人間の場合も同じですが精神的タフさが必要です。その条件にあてはまるのがクロフネミステリーだったのです。結果は3着と善戦。勝つことはできませんでしたが、次の遠征につながる好内容でした。

続いての遠征はタイキブリザードでした。日本のG1でも2着に好走した実績のある馬なので、アメリカのG1競争のブリーダーズカップに出走させました。しかし、結果は最下位の13着。翌年にもタイキブリザードは、ブリーダーズカップに挑戦しましたが、勝馬から23馬身も離された完敗でした。

「これはもう、あと五0年くらい勝てないのではないか。」という思いが私の脳裏を過った。「いつか絶対に見返してやる」という思いの一方で、私は暗澹たる気分に陥っていた。

タイキブリザードの惨敗の翌年の1998年に、藤澤さんは再び海外G1にチャレンジします。

挑戦する馬はタイキシャトル。国内の短距離戦では無敵といわれていたタイキシャトルなので、今度こそはという気持ちが強かったはずです。出走するレースは、フランスで行われるジャックルマロア賞です。

過去3回の海外遠征の経験とタイキシャトルのタフな精神力。そして、フランスに駆けつけた日本の競馬ファンの声援。

タイキシャトルは岡部騎手を背に見事1着でゴールしました。

「カズオ、日本で立派なホースマンになるんだぞ。そして必ずおまえが作った馬を、このイギリスやフランスで走らせるんだぞ、約束だからな!」(31ページ)

タイキシャトルのフランス遠征とG1勝利は、留学先のニューマーケットから帰国する時に厩務員仲間と交わした約束を果たした瞬間でした。

競走馬私論―プロの仕事とやる気について (祥伝社黄金文庫)

競走馬私論―プロの仕事とやる気について (祥伝社黄金文庫)

広告を非表示にする