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ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

いつの世も外交は世論に流される

日本史

日本人が洋服を着始めたのは明治時代のこと。

それまでは誰もが和服を着ていたのですが、明治時代になって一気に洋服が普及します。現代の衣装は、ファッションという言葉があるようにその時々の流行によって変化していきますが、明治時代の洋服の普及は流行による変化ではなかったようです。

洋服を着だしたのは政治的理由から

明治時代に入ると、すぐに明治天皇の洋服が作られます。

江戸時代末期に明治天皇の父の孝明天皇があれだけ外国人を嫌っていたのに江戸時代が終わった途端、明治天皇が洋服を着だしたのですから、世の中の変化が激しかったことがわかります。維新政府の中心である薩摩藩長州藩は、幕末に外国人を日本国内から追い出す攘夷運動を盛んに行っていたのに自らが政権をとると、立場を180度変えて西洋化を推進したのですから世間がおさまるはずがありません。

作家の司馬遼太郎さんは、著書の「この国のかたち」の3巻で、日本人が洋服を着たのは政治的理由があったという旨を述べています。

明治政府の要人の意識をたえず支配していたのは、”条約改正”ということだったのである。
以後、三十年ほどもかかったこの難問題の解決のためには急速な欧米化が必要であるというのが明治政府の考えで、服装改革はあるいは突飛過ぎた(旧幕臣の開明家福地桜痴のことば)とはいえ、かれらの気分はそれほどさしせまっていた。
じつは、徳川幕府を継承した明治政府の要人たちが、いざ国をうけとってみると、意外なおもいがした。
幕府が各国とむすんだ条約におそるべき欠陥があって、じつは日本は半独立国であるという、いわばおもわぬ正体を知ったのである。
(114~115ページ)

東洋の未開の国が西洋列強と対等に話し合いをするためには、自分たちの考え方を西洋風に改めなければならない。そのためには、まず着ている物から西洋化することが大切だと考えたのでしょう。

裁けないし売価も決めれない

江戸幕府が西洋諸国と締結した数々の条約の中でも、特に不平等だったのが、治外法権関税自主権がないことでした。

外国人が、国内で悪さをしても日本の司法は裁けないのですから、彼らはやりたい放題です。司馬さんはこの状態を半植民地化と述べています。

なにしろ日本国の領土のなかに”外国領”(居留地)ができ、外国の警察や軍隊が駐留するというぐあいになったのである。居留地にはむろん日本の主権はおよばず、外国の領土といってよかった。
横浜居留地を例にとると、万延元年(一八六〇年)、各国の領事があつまり、日本政府には断りなしに”神奈川地所規定”というものを成文化した。すでに植民地化されていた中国の上海租界を参考にしたといわれる。
(117ページ)

日本の国土でありながら、外国人の好き勝手にできる場所が一部に存在していたのですから、そこはまさに植民地です。


外国製品に対しても、日本政府は関税をかける自由を与えられていませんでした。海外から入って来た商製品が国内産業に打撃を与えたことは容易に想像できます。

外国人が勝手にルールを作る、売価の決定もできない、遠山の金さんが悪さをした外国人を裁くことも許されない。あまりにも、日本にとって不都合な条約を締結させられていたことを知った明治政府の要人たちは、西洋諸国との交渉にあたって、まず着ている物から彼らに合わせる必要があると考えたんですね。

明治天皇の洋服を作ることに始まり、勅諭まで出して「朕今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ」との言葉でこの国に洋服を浸透させようとしたことには政治的事情が多分にあったのです。

世論で決まる外交

1853年のペリー来航により、幕府はこれまでの鎖国政策を改めなければなりませんでした。

日米和親条約の調印後、他の西洋諸国とも同じような内容の条約を締結し、日本はこれまでとは異なり多くの国と交易をすることになります。ところが、世論はそれを認めません。先にも述べたように孝明天皇は大の外国人嫌い。その天皇の気持ちを無視して外国と交易するなんて許せないと長州藩が騒ぎ始めたせいで、国内世論は外国人排斥に傾きます。

そこで幕府は、フランスにこれまで結んできた条約は全てなかったことにして欲しいと使節を派遣します。そんなことをしたら戦争になると閣老が言いますが、一橋慶喜は反対を押し切りました。フランスに派遣されたのは池田修理。しかし、彼は、フランスを説得することはできませんでした。

日本人たちにとって、仏国外相はあたかも詐欺の名人であったかのようで、あふれるような好意の表現でもって池田らをつつみこみ、巧妙な弁舌によって議事を主導的に進行させた。日本側が気づいたときは、条約廃止どころか、あらたな条約をむすばされていたのである。随行のひとりが、仏外相の巧弁には美酒に酔わされるようだったとのちに回想している。
(132ページ)

結局、この条約はあまりにも日本に不利だったので廃約になります。

幕府がフランスに使節を派遣した行為は、その時の世論に流された外交と言え、このような世論に流された外交は失敗することを後世に教えてくれています。しかし、いつの世も、どの国でも、江戸幕府が行った外交を繰り返しているのですから、外交は世論に流されやすい性質を持っているのでしょう。

このように考えると、明治政府が服装を洋服に変えて国内の雰囲気を西洋化していったことは、世論に流されない外交をするために必要な政策だったと考えられますね。

この国のかたち〈3〉 (文春文庫)

この国のかたち〈3〉 (文春文庫)

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