ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

忘れることは結果的に許すこと。業深き者ほどボランティアをする。

誰だって、怒りの感情を持っています。どんなに普段ニコニコとしている人でも、怒ることはあります。

ある人はいつもニコニコと笑顔でいて、ある人はいつも機嫌悪そうな顔をしています。同じように怒りの感情を持っているのに普段の表情が違うのはなぜなのでしょうか?

怒る頻度が異なるから。それもあるでしょうが、同じくらいの頻度で怒りの感情が湧き上がって来ても、やはり、いつもニコニコしている人は表情が柔らかです。どんなに楽しいことがあっても、いつも不機嫌そうな顔をしている人は般若の面でもつけているような表情をしています。

誰にでも許せないことはある

作家の五木寛之さんは、ガンで友人を亡くした経験があります。著書の「生きるヒント3」で、その友人の方のことが述べられていたのですが、その方は、普段から健康に気を付けていたそうです。酒やタバコを好き放題やって長生きしている人がいるのですから、何とも理不尽なことです。

でも、五木さんは、その友人の方が長生きできなかったことに心のどこかで納得する気持ちがあったそうです。

ある日、五木さんはその友人の方とお酒を飲んでいました。その時、友人の方は、毎日欠かさない日課があると五木さんに言います。

「おれはどんなに家に帰るのがおそくなっても、必ず日記をつけるんだよ」
「ほう。えらいね」
ぼくはなかば冷やかし気味に応じました。
「しかし、よくそんなに毎日、書きたいことがあるもんだな」
「あるとも」
彼はウーロン茶を一口すすると、目を伏せてこう言ったのです。
「きみにも一日のうちに一つぐらいは、許せないことって、あるだろう」
「許せないこと?」
ぼくは首をひねって彼のいかにもシャープな感じのする横顔を眺めました。
「許せないこと、って、たとえばどんなことだい」
「説明しなくたってわかるだろう。ほかのことはともかく、これだけは絶対に許せない、って思うことが」
(183~184ページ)

そう、彼は毎日嫌な思いをしたことを日記に書いていたのです。

誰にでも腹が立つことはあります。でも、日記に毎日許せないことを書き綴っている人は珍しいのではないでしょうか?

忘れてしまえば許したのと同じ

受験勉強などで、何かを覚えなければならない時、紙に書けばよく記憶できると言いますよね。

それと同じで、毎日、許せないことを日記に書き綴っていれば、その怒りはいつまでも消えることなく持続してしまうのではないでしょうか?紙に書かなくても、頻繁に嫌な思いをしたことを思い出していると、それが記憶に定着し怒りの感情が表情に出っぱなしになりそうです。

普段から不機嫌そうな顔をしている人は、許せないことを日記に書いたり、嫌なことを頻繁に思いだしたりしているのかもしれません。

五木さんの友人の方は、何十年も嫌なことを書き綴ってきたため、ノートが背丈ぐらいになってしまったとのこと。もちろん、五木さんも怒り心頭に発する出来事がなかったわけではありません。でも、五木さんは、そういったことは早く忘れるようにしているそうです。

<許せない!>ことを<許せ>というのではありません。そもそも<許す>ことは本来、人間の仕事ではないのではないでしょうか。
<許す>というのは、どこか傲慢な感じがします。
復讐するは我にあり 我これを報いん>
という聖書のなかの謎めいた言葉は、人間の思い上がりをいましめる言葉として私たちの心につよく響きます。
正義をおこなうことも、報復することも、許すことも、すべて人間の仕事ではない。まして、<許せない!>ことなど、とんでもないことではないだろうか。どうも、そんな気がするのです。
だったらどうするか。
<忘れる>しかないじゃないか、というのがぼくのいまの考えです。忘れることができなければ、せめて笑うしかない。それも無理なら悲しめばよい。
(188~189ページ)

人間なんて、そんなに立派な生き物ではないのですから、嫌な思いをした時に怒りの感情がこみ上げてくるのはどうしようもありません。ましてや、嫌なことをした相手を許すことなんてできないのです。だから、嫌なことはすぐに忘れてしまいましょう。

忘れてしまえば、過去に嫌なことをされた記憶が無くなるのですから、それを思い出して怒りの感情が再来することはありません。忘れることは、結果として嫌なことをされた相手を許したのと同じ結果になるのです。

ボランティアは誰のため?

さて、話は変わりますが、ボランティアは誰のためにするものでしょうか?

それは、困っている人の手助けなのですから、困っている人のためにするものだというのが一般的な解答でしょう。

では、手助けをしてあげた相手が、あなたに対して「ありがとう」という感謝の言葉をかけなかった時、どう思いますか?きっと、多くの人が、お礼くらい言ってもいいのではないかと思うはずです。

しかし、こう思う時点で、その行為はボランティアとはちょっと違っているんですよね。

仏教には布施行というものがあります。

それは自分ですすんでやる一種の修行ですから、布施は何かを人に与えたり、尽くしたりする慈善行為ではなくて、自分が解脱したり悟りを開いたり、ある安心を得るためにするものと考えてもいいでしょう。ですから、物乞いの人たちに施しをしたときは、自分に行をするチャンスを与えてくれたその人に合掌して頭をさげ、黙って受け取って去っていく姿を感謝しつつ見送らなきゃいけない。
(85~86ページ)

ボランティアは、困っている人を助ける行為だと多くの人が思っています。でも、ボランティアは自分自身を安心させたり、納得させたりする行為なのです。

例えば、道端で苦しそうにしている人がいたとしましょう。もしも、何もせずに素通りしたら、なんとなく後味が悪くないですか?その後味の悪さを嫌って、困っている人に助けの手を差し伸べるのです。

つまり、ボランティアとは、他人のために行うものではなく、自分自身が後で嫌な気持ちにならないように行っている行為であり、それは自分の気持ちが軽くなるとか、楽しくなるとか、そういったことが動機なのです。

溜まった業は寄付で取り除く

よく欧米人は、成功してお金持ちになったら貧しい人々に寄付をすると聞きます。
日本人でも、寄付をする方はいらっしゃいますが、欧米と比較すると、その額はあまり多くはありません。

お金持ちになっても寄付をしない日本人はまだまだ未熟だなと思ってしまいますが、そうとは言えません。

成功した欧米人が寄付をするのは、一言でいうと、自分の中に溜まった業(ごう)を取り除くためです。

ヨーロッパ資本主義の背景には、キリスト教、特にプロテスタンティズムの宗教があるといわれます。それは三つの倫理をすすめるもので、力いっぱい稼げ、多く蓄えよ、そしてできるだけ多く与えよ、という思想です。だから、資本家たちは迷うことなく、ものすごい勢いでビジネスに邁進することができる。それは単なるお金儲けではなく、稼ぐことが自分の宗教的修行の意味を持つわけですから。
その三つの倫理を守っているかぎり、神は許し、保護したもうている。そんな気持ちの保証を得て、デリバティブなどという危険なマネー・ゲームにわれを忘れてのめりこんでいくんでしょう。
どんなに強欲非道な商売をして金をかせいでも、それは神の意志にそむくことではない。ちゃんともうけの一部を寄付することさえ忘れなければ。
(88ページ)

どんなに卑劣なことをして大金を稼いでも、寄付をすることで背負っている業を降ろすことができるのなら、ビジネスに精を出せるでしょう。その際、多くの人に迷惑をかけたとしても、多額の寄付をすることで、蓄積された業がリセットされるのなら、稼いで稼いで稼ぎまくろうと思うはずです。


業深き者が寄付をして心を軽くする行為と許せないことを忘れることは、似ているように思いませんか?

仕事で後味の悪い思いをしたら寄付やボランティア活動をする。嫌なことがあったらすぐに忘れる。

そうやって世の中はうまく回っていくのかもしれませんね。