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聖徳太子の「聖」と「徳」に秘められた謎

井沢元彦さんの「逆説の日本史2古代怨霊編」では、誰もが名前を知っている聖徳太子が登場します。

聖徳太子と言えば、冠位十二階や十七条憲法が有名ですね。現代人のイメージだと、品行方正で立派な人、大国隋との外交で一歩も引かなかった胆力のある人、一度に10人の質問に答えたという伝説からは人の話をしっかりと聞く民主的な人といった感じでしょうか。

だから、聖徳太子の死後、「聖」と「徳」といういかにも仁徳のありそうな名が贈られたのだと解釈されています。

しかし、井沢さんは、そうは考えません。「聖」と「徳」には、もっと深い意味があるというのです。

仁徳があるから「徳」の字が贈られたわけではない

聖徳太子は、仁徳があったから「徳」という字が贈られたわけではないというのが井沢さんの説です。その根拠となるのが、「徳」の字がついている歴代天皇の生涯です。

「徳」の字が付いている歴代天皇は以下に示すように6人います。

  1. 孝徳天皇
  2. 称徳天皇
  3. 文徳天皇
  4. 崇徳天皇
  5. 安徳天皇
  6. 順徳天皇

この6人の天皇には共通点があります。何かわかりますか?こうやって並べられただけで共通点に気付く方は、かなりの日本史通ですね。とりあえず、6人の天皇の略歴を順番に紹介していきます。

1.孝徳天皇

孝徳天皇の在位は645年から654年です。即位した年をご覧になると気付くと思いますが、大化の改新があった年ですね。

大化の改新中大兄皇子中臣鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏を滅ぼしたクーデターでした。このクーデターで即位した天皇孝徳天皇なのにあまりその名は知られていません。理由は簡単で、中大兄皇子が政治の実権を握っていたからです。そう、孝徳天皇はただの飾りだったわけです。

中大兄皇子は、653年に都を難波から大和に遷すことを計画しますが、これに孝徳天皇は反対したため、新都に迎えられることなく難波に置き去りにされ、翌年寂しくこの世を去りました。

2.称徳天皇

称徳天皇は女帝です。称徳天皇孝謙天皇でもあります。749年に即位した時が孝謙天皇で、退位した後、764年に再び即位した時が称徳天皇です。

称徳天皇は、宇佐八幡の神託により、僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を次期天皇にしようとしましたが、和気清麻呂にその神託が嘘だと見破られて断念したことで知られていますね。称徳天皇が、道鏡を即位させようとしていたことは事実ですが、天皇が急死したことで、その思いを達成することはできませんでした。

3.文徳天皇

文徳天皇は850年に即位し、858年に崩御しています。文徳天皇には第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)と第二皇子の惟仁親王(これひとしんのう)がいました。文徳天皇は惟喬親王を次期天皇にしたかったのですが、藤原良房が自分の娘の明子(あきらけいこ)が生んだ惟仁親王を皇太子に立てるように圧力をかけてきたため、断念しました。

その後、文徳天皇は若くして急死。藤原良房が暗殺したのではないかといわれています。

4.崇徳天皇

歴代天皇崇徳天皇ほど哀れな天皇はいないのではないでしょうか?崇徳天皇は父の鳥羽上皇に疎まれ、子が生まれるとすぐに退位させられ、我が子の近衛天皇皇位を譲っています。その後は、日陰の人生を歩みますが、近衛天皇が若くして亡くなったことから、政治の世界に返り咲くチャンスが巡ってきます。

しかし、この時も父の鳥羽法皇に邪魔され、弟の後白河が即位したため、政治の表舞台で活躍するチャンスが手のひらから零れ落ちました。これに立腹した崇徳天皇(この時は上皇)は、反乱を起こします。これが保元の乱ですね。戦いの結果は後白河天皇勝利で終わり、崇徳上皇は讃岐に島流しとなります。

崇徳上皇は何度も謝って都に帰りたいと懇願しましたが許してもらえず、天皇家を呪いながら流刑地でこの世を去りました。

5.安徳天皇

安徳天皇平清盛の娘の建礼門院徳子が生んだ子です。つまり清盛の孫ですね。安徳天皇は幼くして即位し、8歳で亡くなっています。安徳天皇が亡くなったのは平家滅亡の時。壇ノ浦の戦い源義経の水軍に敗れた平家一門は、次々に海へと飛び込んでいきました。幼かった安徳天皇も、清盛の妻の二位の尼に抱かれ入水。海の藻屑となってしまいました。

6.順徳天皇

順徳天皇は、鎌倉時代天皇です。兄に後鳥羽上皇がいます。後鳥羽上皇と言えば、鎌倉幕府を倒そうと承久の乱を起こしたことが有名ですね。その後鳥羽とともに反乱に加わりましたが、北条泰時にあっという間に鎮圧されてしまいます。その後、順徳天皇(この時は上皇)は佐渡に島流しとなり、流刑地で亡くなっています。


ここまで簡単に6人の天皇を紹介してきましたが、その共通点がもうお分かりですよね。

「徳」の字が付く天皇は非業の死を遂げている

6人の共通点は、全て非業の死を遂げているということです。

ここで、6人の天皇聖徳太子よりも後の時代に亡くなっているので、聖徳太子の名とは関係がないと思うでしょうが、天皇の名というのは生きている時に付けられるものではありません。天皇の名は、これを諡(おくりな)と言いますが、亡くなった後に後世の人によって贈られます。

すなわち、井沢さんは、「徳」の字というのは、非業の死を遂げた天皇に贈られる字なのだと推理しているのです。そう考えると、聖徳太子も、「徳」の字が付いていることから非業の死を遂げたに違いないのです。

聖徳太子が亡くなったのは、622年2月22日です。病死とされています。聖徳太子の看病には、妻の膳部(かしわで)夫人があたっていましたが、彼女は夫が亡くなる前日の2月21日に先立っています。これは、あまりに不自然すぎます。異常死と考えるのが普通ではないでしょうか?

では、聖徳太子と膳部夫人の死因は何なのか?

暗殺では?

一体誰が?

蘇我氏なのでは?

なぜ蘇我氏が?

聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を死に追いやったのが蘇我入鹿だから、蘇我氏の手によって聖徳太子が暗殺されたとしても不思議ではありません。

「聖」の字は怨霊鎮魂を意味する

その後、645年の大化の改新蘇我氏は、中大兄皇子によって滅ぼされます。これを当時の人々がどう捉えたでしょうか?ここから、井沢さんが日本の歴史を考えるうえで重要視している呪術的側面があらわれます。

当時の人々が、蘇我氏中大兄皇子に滅ぼされたと聞いて、すぐに思い浮かべたのは、聖徳太子の祟りだということです。そうです。聖徳太子は非業の死を遂げ怨霊となったのです。その怨霊が蘇我氏を根絶やしにしたんだと考えたわけですね。

怨霊を鎮めるためには、祀らなければならない。これが当時の人々の考え方です。

井沢さんによれば、悪霊が善なる神に転化した時、当時の人々は、それを「聖」と呼んだということです。つまり、聖徳太子というのは、非業の死を遂げて「徳」の字が付けられたとともに、怨霊が善なる神に転化したことから「聖」の字も付けられたのだと考えているのです。

このような発想は、史料を解読しているだけでは出てこないでしょう。日本史の研究においては、呪術的側面や宗教的側面も考慮しなければ真実に近づくことはできないのではないかと思いますね。

逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 (小学館文庫)

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