ウェブ1丁目図書館

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織田家から政権を奪い取った豊臣秀吉の謀略

天下分け目の天王山。

プロ野球もシーズン終盤の首位攻防戦になると、中継でアナウンサーがよく口にします。ここを勝てば優勝がほぼ決まるといった大事な試合を「天王山」と表現することがありますね。

天下分け目の天王山とは、1582年に豊臣秀吉明智光秀が京都の天王山で戦い、勝利した豊臣秀吉が天下を統一したことから使われるようになった言葉です。この言葉から、豊臣秀吉は天王山の戦いに勝ってすぐに天下をほぼ手にしたと思っている人が多いですが、そのようなことはありません。なぜなら、天王山の戦いを勝った後の秀吉は、まだ織田家の家臣に過ぎず、織田家の後継者候補が3人もいたからです。

織田信忠が生きていれば秀吉は天下をとれなかった

豊臣秀吉の天下統一は、幸運による部分が大きいです。秀吉は類まれな頭脳を持っていましたが、本能寺の変織田信長が討死しなければ天下をとることはできなかったでしょう。

また、信長が本能寺で討死した後も、本来なら織田政権の後継者になることはできません。なぜなら、織田家家督はすでに嫡男の信忠に移っていたからです。なので、本能寺の変で信長が明智光秀に討ち取られても信忠が生きている限りは、秀吉の出る幕は全くなかったのです。ところが、その信忠も本能寺の変が起こった時に京都におり、すぐに安土城に逃げ帰ることができたにもかかわらず京都に居残ったことから、明智光秀に討ち取られてしまいました。

もしも、信忠が安土城に逃げることができ、その後で秀吉が天王山の戦いで光秀を討ち取っていたら、織田政権は信忠の代で盤石のものとなっていたでしょう。

清州会議で柴田勝家が巻き返す

しかし、信忠が討死しても、信長の次男信雄、三男信孝、信忠の子で信長の孫にあたる三法師と、織田政権の後継者はまだ3人も残っていました。

作家の井沢元彦さんは、著書の「逆説の日本史11巻 戦国乱世編」で、秀吉は天王山の戦い後でも、まだ織田家の家来であって信長の後継者たる地位にはなかったという旨を述べています。しかし、後世の人は、秀吉が天下を統一していることを知っているから、中国大返しや天王山の戦いでの勝利で、直ちに秀吉の天下が確定したように錯覚しているのだと指摘しています。

信長と信忠が亡くなった後、秀吉の天下取りの最大の障害となったのは、柴田勝家でもなければ徳川家康でもありません。秀吉の天下取りの最大の障害となったのは、信長の三男信孝でした。次男の信雄はバカ殿でしたし、孫の三法師はまだ子供。したがって、この2人は秀吉の頭脳をもってすればどうとでも操ることが可能です。しかし、信孝はやり手だったので、そう簡単に操ることはできません。

そこで、秀吉は織田家臣団が集まって後継者を決める清州会議で、やり手の信孝ではなく幼い三法師を推薦します。筋目で言えば、信忠の子の三法師が最も後継者にふさわしいのですが、戦国乱世で子供に家督を継がせるのは家の衰退につながります。だから、織田家忠臣の柴田勝家は、聡明な信孝に家督を継がせることを提案したのですが、丹羽長秀池田恒興が秀吉に手懐けられたため、織田家の後継者は三法師に決定しました。

しかし、柴田勝家織田信孝も黙ってはいません。幼い三法師の養育を信孝に任せることを会議で提案し、柴田勝家の思い通りに可決しました。

三法師が織田の家督を継ぐことが決まった時点で秀吉が織田家を自由に動かせる立場になったように思われていますが、まだ、この段階では三法師は信孝と柴田勝家に預けられているので、秀吉が優位に立ったとは言えません。

謀略を使って信孝の命を奪う

三法師は、とりあえず信孝の主城である岐阜城に遷すことになりました。そして、後に安土に三法師が住むことが決まったのですが、安土城は焼失しているので、いつ遷すかをすぐには決定できません。

秀吉は、これをうまく利用します。

信孝は清州会議で決定した三法師を安土に遷すという内容に従う気がないのだと、秀吉は、織田信雄に訴えます。バカ殿の信雄は、秀吉の言葉を簡単に信じたため、「兄信雄の命令」という大義名分ができた秀吉は信孝の岐阜城を包囲して降伏させました。そして、三法師を奪い返し、信孝の母と娘を人質にとることにも成功します。

一度は秀吉に屈した信孝でしたが、再び秀吉討伐のために兵を挙げます。すると、秀吉は人質を処刑します。また、信孝も兄信雄の降伏勧告に従い、岐阜城を明け渡すことになりました。しかし、これが信孝の不幸。結局、信孝は兄信雄の命により切腹させられたのです。


これで、秀吉は、やり手の信孝を排除できました。まだ、信雄と三法師は残っていますが、幼い三法師には何もできませんし、信雄もバカ殿なので、この後、まんまと秀吉の罠に引っかかり、政権は織田家から秀吉に移りました。

この信孝さえうまく排除してしまえば、あとは「バカ殿と赤ん坊」であり、どうにでもなる。簡単に言えば、秀吉はそう考えていたのである。
そして、秀吉が悪知恵にたけているのは、この通常なら「役立たず」と誰もが考える「バカ殿と赤ん坊」を「反逆者」の汚名を着ないで信孝を排除するための「道具」に使ったことなのである。
(130~131ページ)

秀吉は、天王山の戦いで明智光秀を討ち取ったことから織田家の忠臣のように思われています。

しかし、実際はそうではなく、秀吉は織田家から天下を奪った稀代の詐欺師だったのでしょう。