ウェブ1丁目図書館

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学問と自由

学問とは何かを問うてみると、それは生きていくために役立つことを学ぶこととなるのでしょうか。つまり、多くの人にとっては、実学こそが学問となりそうです。

実学という言葉を最初に用いたのは、福沢諭吉だとされています。福沢諭吉と言えば、「学問のすゝめ」が有名ですね。学問のすゝめは、国民160人に1人が読んだと言われている大ベストセラー。タイトル通り、福沢諭吉はその中で学問の大切さ、すなわち実学の大切さを述べています。

学問は活用することが大事

学問は、人生の中で活用されてこそ価値のあるものです。ただ算数ができるだけでは意味がありません。現代のような資本主義社会では、算数を活かして1日の売上がいくらだったかを計算できなければ、算数を実社会で役立たせることはできないでしょう。

江戸時代以前は、実学よりも学問のための学問が重視されていました。もちろん現代でも基礎研究は重要です。でも、多くの人にとっては基礎研究よりも、販売個数や利益を計算できた方が仕事の役に立ちますし、料理ができた方がお腹を満たせます。福沢諭吉も、「学問の要は活用に存るのみ。活用なき学問は無学に等し」と述べています。

朱子学の書生の話。

彼は、長年、江戸で修業し朱子学の諸大家の説を写し取り、日夜怠らずして数年の間に数百巻の写本を達成しました。彼は、その写本を持って故郷に戻るため船に乗ります。

不幸なる哉、遠州洋において難船に及びたり。この災難に由って、かの書生もその身は帰国したれども、学問は悉皆海に流れて心身に附したるものとては何一物もあることなく、いわゆる本来無一物にて、その愚は正しく前日に異なることなかりしという話あり。
(106ページ)

書生は、たくさん写本することを学問と思っていたのでしょう。しかし、写本が失われてしまえば、彼の頭の中には何も残りません。数年間の修行は何の意味もなかったのです。活用できない学問は、真の学問とは言えません。

学問は疑問を持つことから始まる

福沢諭吉は、「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し」と語っています。

難病を治すために長期間の断食をして命を落とすのは、人の口から出た神や仏の存在を信じるからです。ただ信じるだけでなく、なぜ、断食で難病が治るのか疑問に思えば、結果は違ったものになって来るでしょう。

文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、その働きを詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国の人民が今日の文明に達したるその源を尋ねれば、疑の一点より出でざるものなし。ガリレヲが天文の旧説を疑って地動を発明し、(中略)ワットが鉄瓶の湯気を弄んで蒸気の働きに疑いを生じたるが如く、何れも皆疑いの路に由って真理の奥に達したるものと言うべし。
(134ページ)

人類の偉大な発明をみると、誰もが何かに疑問を感じたことから出発しています。信じることは、写本をすること、ただ暗記をすることと同じです。

自由と我がまま

自由と我がままの境界は、どこに引かれているのでしょうか?

自分が働いて稼いだお金を自分の好きなように使うこと、これは個人の自由のように思います。しかし、自分のお金を好きに使うことは、時に我がままになります。

自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとものその罪許すべからず。また自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。
(13~14ページ)

自分の金をどう使おうと自由だと言っても、風紀が乱れるような使い方は許されません。例えば、違法薬物に手を出すのは風紀の乱れにつながり社会に悪影響を与えるので、これは自由ではなく我がままとなります。


学問を実学と捉えれば、学問をすることは生きていくために必要な知恵を得ることになります。その知恵を活用すれば自分の生活も良くなりますし、ひいては社会の発展にもつながります。しかし、学問によって稼いだお金だからと言って、我儘放題に散財する行為は時に社会に悪い影響を与えます。

お金の使い方を知ることもまた学問ではないでしょうか。

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)