ウェブ1丁目図書館

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日本の学校給食と医薬分業の始まりはサムス大佐の尽力によるところが大きい

現在の日本の小学校の多くが、学校給食を実施しています。

学校給食は、子供たちの栄養補給に貢献するすばらしい制度です。もしも、学校給食がなくなれば、子供たちの栄養補給にバラツキが出てくるはずです。そうなると、子供の健康状態に差が生まれ、中には極端にひ弱な体で大人になる子供も出てくるでしょう。

子供たちの栄養補給に大切な学校給食が、我が国で導入されたのは、戦後の米軍統治下にある時期でした。

即戦力にならない子供の栄養補給は後回し

我が国の学校給食の始まりについては、杉晴夫さんの著書「栄養学を拓いた巨人たち」でわかりやすく解説されています。

子供の栄養補給が大切だということは、現代の日本では当たり前となっています。しかし、戦時中や戦後はそのようには考えられておらず、むしろ、即戦力にならない子供の栄養補給は後回しで良いとする考え方を為政者や官僚は持っていました。

彼らの関心事はもっぱら、戦場や軍需工場にただちに動員しうる青壮年の栄養状態であった。より端的にいえば、劣悪な栄養状態に耐えられる強い子どもだけが成長してくれればよく、虚弱な子どもが悪条件に耐えられず淘汰されるのはやむをえないという考え方であった。当面の戦いの役に立たない者の健康は二の次だったのである。
(238ページ)

少ない資源で戦争に勝つためには、子どもに大切な食糧を回せないということだったのでしょう。


しかし、このような為政者や官僚の考え方は、やがて終戦によって変わっていきます。彼らが考え方を改めたのは、戦後に来日したアメリカの元大統領フーバーとクロフォード・サムス大佐の影響があったからです。

ララ物資で飢えから解放される

戦後の日本は、食糧が不足していたため餓死者が出る状況でした。

これを見たフーバー元大統領は、直ちにマッカーサー元帥に食糧の緊急輸入と世界中から救援物資を募ることを提言します。そして、アジア救援公認団体(LARA)からたくさんの物資が送られ、多くの日本国民が飢えから解放されました。

さらにフーバー元大統領は、学校給食の導入を提案し、その任務にサムス大佐が就きました。

サムス大佐は、1,300万人の子どもたちの栄養補給のため学校給食の導入を政府に要請します。しかし、農林省の対応は大人の食糧が不足しているのに子供の食糧を調達できないというものでした。また、文部省は学校給食のために人を雇う余裕がないと答え、大蔵省も予算がないと拒否しました。

そこで、サムス大佐は、米軍の食糧を学校給食のために供与することを提案します。そして、食糧は後から日本政府が返してくれれば良いと言いました。

日本政府の官僚たちは2週間協議すると答えて、返事を先送りした。ところが、2週間後の彼らの返答は「米軍の食料を借りても、将来返せる見込みがない。だから学校給食は不可能である」であった。おそらく官僚たちは給食などという面倒な業務を抱え込むのを嫌い、のらりくらりとかわしていれば、そのうち米軍もあきらめると甘く見ていたのであろう。しかし、サムスはこの返答に対し顔色を変えた。日本の官僚たちは彼の怒りをおそれ、沈黙した。
(241~242ページ)

学校給食の導入を諦めなかったサムス大佐は、米軍が差し押さえた日本軍物資の缶詰約5,000トンとララ物資の一部を給食にまわすよう取り計らいます。

こうして我が国で学校給食が始まり、やせ細っていた子供たちは短期間のうちに元気になっていきました。

給食費を親がなぜ払うのか?

学校給食の効果を目の当たりにした官僚たちは、給食費を政府が支給し親から徴収するのを打ち切る提案をしました。

現在でも、給食費を払えなかったり、また意図的に払わない親がいるので、税金から給食費を負担すればいいのにと思うことがあるのですが、そうならないことには、しっかりとした理由があります。

「日本の子どもたちに無料の昼食を与えれば、彼らの親たちは次に、朝食も夕食も政府が支給することを期待するだろう。そしてやがては衣食住のすべてを政府に求めるようになるだろう。現に米国では、これと似た政策がとられた結果、すべてを政府に求めようとする世代が育ちつつある。英国などは手厚い政策のために、労働者は働かず、政府に要求ばかりする国になってしまった」
(244ページ)

サムス大佐が、学校給食を親負担のまま維持したのは、これが理由だったのです。

現在の日本では、福祉の充実を国民が政府に要求し過ぎるため、増税に踏み切らなくてはならなくなっています。また、国債発行残高も増え続けています。サムス大佐が恐れていたことが、学校給食とは違う形で溢れだしているのではないでしょうか?

生命のためなら特許権侵害も著作権問題も後回し

さらにサムス大佐は、医薬分業に対しても力を入れていきます。

人々の健康のためなら、まずは特許権著作権も無視し、横浜の米軍病院から最新の医療機器を持ち出して、日本の医師たちに公開します。そして、医療機器の模造も容認したのです。特許料はサンフランシスコ講和条約締結後に過去にさかのぼって支払えば良いとサムス大佐は考えたのです。

さらにアメリカの最新の医学雑誌を医師たちが閲覧できるようにし、そして内容を翻訳して知見を広めることを認めました。この期待に応えたのが、聖路加国際病院の理事長である日野原重明さんと杉さんの御尊父の靖三郎さんでした。

ただ、靖三郎さんが刊行した「日本版ジャーナルAMA」には、「唯一無二の信望を得た驚異的一品」、「副作用絶無」などの医薬品の広大広告が多数あり、後にサムス大佐が雑誌の広告の検閲を行うようになりました。しかし、靖三郎さんは、これを逆手にとって「本誌掲載の広告の医薬品は、すべて米軍当局の厳重な審査をパスした優良製品であるとうたって広告を募集した」そうです。


サムス大佐は、医薬兼業が医師たちの既得権となっていたことにも目をつけました。国内の医師が調合した医薬品には以下の問題があったからです。

(1)二流の医師が患者に処方して与えていた薬の大半は重曹である。
(2)医師は自分の家族にこのような劣悪な、薬とはいえない薬を調合させている。
(3)薬の成分を分析すると、医師が請求する薬代は正当な価格よりはるかに高価である。
(252ページ)

しかし、サムス大佐が考えていた医薬分業は、すぐには実現せず、現在のように確立されたのは1975年頃でした。朝鮮戦争の勃発でサムス大佐が日本を去らなければならなくなり、抵抗勢力が力を盛り返したからです。

医薬分業が確立されたとはいえ、現在でも、製薬会社と大学病院の癒着がたびたび問題になっていることを考えると、サムス大佐が理想とした医薬分業体制は、まだ日本には根づいていないのかもしれません。

栄養学を拓いた巨人たち (ブルーバックス)

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  • 作者:杉 晴夫
  • 発売日: 2013/04/20
  • メディア: 新書