ウェブ1丁目図書館

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勝海舟の日本人だけによる太平洋無寄港横断航海は真実にあらず

1860年1月13日に300トン足らずの小艦であった咸臨丸が品川を出港しました。目指すはアメリカ大陸です。艦長は、あの有名な勝海舟でした。

航海は38日間に及びましたが、咸臨丸は無事にアメリカに到着しました。勝海舟は、日本人の手による太平洋無寄港横断に成功したのです。さすが歴史に名を残す人物だけあります。

でも、この話、新井喜美夫さんの「『善玉』『悪玉』大逆転の幕末史」によると、嘘なんですよね。

遣米使節団はポーハタン号で渡航

僕は、この本を読むまで、ずっと勝海舟が、日本人だけで太平洋無寄港横断航海を成功させたと思っていました。ところが、咸臨丸には、10人のアメリカ人も乗船していたんですね。

日本とアメリカの間で修好通商条約が調印された後、大老井伊直弼は、ワシントンに遣米使節団を派遣することを決定しました。その代表に選ばれたのが、勝海舟と言いたいところですが、そうではありません。

代表となったのは、新見豊前守正興、村垣淡路守範正、小栗豊後守忠順(ただまさ)の3人でした。

使節団が乗る軍艦は、日本の軍艦にすべきという幕府内の意見があったものの、無事にアメリカに到着することを優先的に考えて、アメリカ軍艦ポーハタン号を利用することにしました。

「え、咸臨丸じゃなかったの?」

と思いますよね。そうなんです。使節団が利用したのは、ポーハタン号だったのです。咸臨丸は、使節団の護衛という面目で太平洋横断を許可されています。咸臨丸の司令官は木村摂津守喜毅です。勝海舟は、木村摂津守と知り合いだったことから艦長として咸臨丸に乗船しています。

ここまでで、すでに勝海舟は、遣米使節団の脇役といった感じですよね。

咸臨丸には、通訳としてジョン万次郎や勉強のためにとアメリカに渡航することになった福沢諭吉が乗船していました。日本人乗船者は全部で96名。

しかし、木村摂津守は、ペーパードライバーだったため、公開に熟練した人も乗船させておくべきだと判断します。そこで、日本近海で測量中に座礁したアメリカのクーパー号のブルック艦長と乗組員10名を合わせた11名の遭難者を本国に護送するという名目で、同乗させることにしました。

船酔いで役に立たなかった勝海舟

品川港を出港した咸臨丸。

アメリカへの渡航を待ち望んでいた勝海舟は、意気盛んに日本人乗組員を指揮していたと思いきや、艦長室から一歩も出てきません。何も指揮せずにいたのでは、咸臨丸は、アメリカに向かいことができません。

一体どうなっているんだと、木村摂津守が水兵に尋ねると、勝海舟は出航してすぐに船酔いで艦長室に閉じこもってしまったというのです。これは、ブルック大尉の日記に記されていたことで、勝海舟は、部下に何一つとして指示を出さなかったようです。

これでは、航海がうまくいかないと思ったブルック大尉が勝海舟に詰め寄ると、彼は、今後はブルック大尉の指示に従うようにと部下に言い残して、そそくさと艦長室に入り、出てこなくなりました。

結局、咸臨丸の甲板で働いていたのは、10人のアメリカ人士官と日本人の中では、ジョン万次郎、小野友五郎、浜口与右衛門の3人だけだったということです。司令官の木村摂津守も船酔いで艦長室に閉じこもっていたということですから、日本人の指導者は、航海中、全く役に立っていなかったということですね。

自己主張の強さから起こった旗印事件

船酔いで航海中、ほとんど艦長室から出なかった勝海舟ですが、サンフランシスコが近づいてくると、さすがに元気になってきました。

入港に際しては、旗印を掲げることになっており、士官たちは、その手配をしています。旗印として掲げるのは、司令官である木村摂津守の紋所。しかし、勝海舟は、自分が艦長なのだから、勝家の紋所を掲げると言い出します。

木村摂津守に声を掛けてもらわなければ、乗船することができなかったのに、上司を差し置いて自分の紋所を掲げることを要求するとは、なんと傲慢なんでしょうか。

当然、木村摂津守と勝海舟がもめているので、部下たちは困惑します。そこで、士官たちがブルック大尉に、この場合、どのようにするのが良いのかを訊ねたところ、国際的慣習では、司令官の旗印を掲げることになっているということだったので、木村摂津守の旗印を掲げることにしたということです。

しかも、他国の港に軍艦が入港するときは、礼砲を撃つのが礼儀とされていましたが、勝海舟は失敗したら恥ずかしいからやめておけと、佐々倉桐太郎が礼砲を撃とうとするのをやめさせようとします。

確かに失敗すればかえって相手国に失礼となるのですが、佐々倉は、礼砲を撃つ自信がありました。それを木村摂津守もわかっていたので、礼砲を撃つことを命じます。

結果、佐々倉は見事礼砲を撃つことができました。

勝海舟は、礼砲を撃てたら自分の首をくれてやると事前に行ってましたが、いざ、佐々倉が礼砲を撃つのに成功すると、不快な顔をしてその場を立ち去ったということです。この様子を福沢諭吉が見ていたというのですから、事実なのでしょう。


このように咸臨丸が日本人だけで太平洋無寄港横断航海に成功したというのは事実ではありません。でも、なぜ、このような嘘が信じられているのでしょうか?

それは、勝海舟の自己顕示欲の強さが原因です。

江戸時代が終わり、明治時代になると、勝海舟は、幕末から明治維新にかけての記録の整理を行います。著作に「海軍歴史」や「陸軍歴史」があります。勝海舟は、事あるごとに幕末の自分の功績を人にひけらかしていたということです。それもホラが多かったようで、その中で咸臨丸の太平洋無寄港横断航海についても触れていたのでしょう。

こういったことも歴史が捻じ曲げられる原因なんでしょうね。