ウェブ1丁目図書館

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江戸幕府の環境保護政策を見習う

近年、環境破壊が進行し、このままでは地球が危うい、もっと自然を大切にしなければならないと叫ばれることが多いですね。

環境保護政策については、ドイツや北欧の国々に学べと言われることがあります。でも、わざわざ外国に学ばなくても、日本の歴史から学ぶことはできます。特に江戸時代の歴代徳川将軍が行ってきた環境保護政策は、現代の日本だけでなく多くの国々でも参考になるでしょう。

戦国時代の大規模な環境破壊

江戸幕府環境保護政策について書かれた書籍を国内で見かけることは少ないのではないでしょうか?僕は、これまで書店でそのような本を見かけたことがありません。単に見つけられなかっただけかもしれませんが。

江戸時代に日本で行われていた環境保護政策に関しては、アメリカの生物学者ジャレド・ダイアモンドの著書「文明崩壊(下)」で興味深いことが述べられています。おそらく、多くの日本人が知らない事実でしょう。

15世紀後半から16世紀後半までの約100年間、日本は戦国時代でした。この時代は、城を築いたり武器を製造するのに木材を多く使用していました。そのため、この時期に国土の森林破壊が進んでおり、徳川家康が天下を統一し江戸幕府を開いてからも数十年間は乱伐が行われていました。

一五七〇年ごろから、秀吉、その後継者である将軍家康、そのほか大名の多くが先頭に立ち、壮大な城や寺を建造して自己満足に耽ったり、互いを圧倒しようと試みたりした。家康が築いた城のうち最大の三城だけで、約二十五平方キロの森林を伐採する必要があった。秀吉、家康、そして次代の将軍のもとで、約二百の城下町と都市が生まれた。家康の死後、市街地の住宅建設が、木材の需要の面で、支配層の巨大建造物を上回った。
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江戸時代初期は、戦国時代が終わって人口が倍増し、さらに環境破壊が進行していました。そのため、日本にやってきたヨーロッパ人たちは、日本は崩壊するだろうと予想していました。

ところが環境問題が深刻化していることに気付いた徳川幕府は、以後、徹底した環境保護政策を実施します。

将軍によるトップダウンの規制

森林乱伐が頂点に達した17世紀中頃、木材が不足するようになって環境破壊の速度は緩やかになっていきました。

当初は、将軍や大名の指示により伐採が行われていましたが、やがて個人商人による伐採がそれを上回るようになります。木材が不足し始めた国内では、村同士や村内部、村と大名や将軍との間で木材の奪い合いが頻発しはじめました。

そして、乱伐を原因とする風水害による洪水、台風被害の増加、森林から得られる肥料や飼料の不足などが同時に作用して、太平の世の到来とともに爆発的に増加した日本人に大きな飢饉が何度も襲い掛かってきました。

これに危機感を覚えた徳川将軍は、ついに環境保護政策を打ち出します。軍事力を掌握していたこと、鎖国による外敵の侵略の危険がなかったことから、徳川将軍家は、トップダウンで長期に渡る環境保護政策を実施することができました。

農業に対する圧力の緩和

環境保護政策のひとつは、農業に対する圧力の緩和です。そのために幕府は、魚介類やアイヌとの貿易で得た食料への依存を増やしました。これにより、農耕地用の肥料は、緑肥から魚粉への依存度が高まりました。北海道から輸入してきた魚介類を食する機会も増えたことでしょう。しかし、この幕府の政策により北海道の自然は破壊されました。ただ、当時の北海道は日本ではなかったので、国内の自然破壊は抑えられています。

北海道も含めて考えると、本州の自然破壊が北海道に移っただけとも言えるのですが。

人口抑制政策

江戸幕府が行った環境保護政策として特に知っておくべきだと思うのが、人口抑制政策です。

18世紀前半の人口は2,610万人、19世紀前半の人口は2,720万人。約100年の間の人口増加率は、4.2%でしかありません。

古代や中性に比べて、十八世紀と十九世紀の日本人は晩婚になったうえ、乳児への授乳期間を長くとり、その結果としての授乳性無月経や、避妊、堕胎、嬰児殺などによって、以前より長い間隔を置いて子どもをもうけた。出生率の低下は、それぞれの夫婦が食糧などの資源の不足を認識して対応した結果といえるだろう。それは、江戸時代の出生率の上昇と下降が、米価の上昇と下降に連動していることからもうかがえる。
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人口増加を抑えれば、森林伐採の速度が加速することはありません。

さらに木の代替燃料として石炭が使用され始めたことも、森林の保護に役立っています。江戸時代の日本人は、暖を取るためにかまどに薪をくべていましたが、それが石炭に代わり始めたので木を伐らずに済むようになりました。

長期政権が実現した消極的対応策と積極的対応策

緑肥から魚粉への移行、人口抑制政策は、これ以上の森林破壊を食い止めるための消極的対応策でした。伐採しなければ、そのうち樹木が育って、やがて元の森林が回復するだろうという政策です。

これに対して、徳川幕府は積極的に森林面積を増やしていく政策もとっています。すなわち植林です。17世紀末には、宮崎安貞が「農業全書」を著し、育林に関する科学的知識が体系化されました。

しかし、消極的対応策も積極的対応策も、森林の回復には長い年月を要します。植えたばかりの苗木がしっかりと生長するまでには、親、子、孫の代に渡って、いやそれ以上の期間に渡って管理し続けなければならないでしょう。


そのような長期的な森林管理ができたのは、徳川幕府が長期政権だったからです。

先にも述べましたが、徳川幕府は軍事力を掌握していたので政権交代はあり得なかったですし、鎖国により外敵の侵略を恐れる必要もありませんでした。だから、森林回復のための長期的政策を打ち出すことができたのです。

食糧自給率100%

徳川幕府環境保護政策は、国内の食糧自給率を高い水準に維持することも可能としました。

江戸時代の日本の人口は約2,000万人、幕末には3,000万人ほどでした。そして、日本の総石高は約2,000万石です。1石は約150kg、1合が約150gなので、1石は1,000合になります。当時の日本人が1食で食べる米の量は約1合だったので、1日3食なら3合の消費です。

したがって、1石は国民1人当たり334日分の米の量となります。つまり、1石とは、人が約1年間で食べる米の量を表した単位だったのです。

このように計算すれば、日本の人口が2,000万人、総石高が2,000万石だった江戸時代は、食糧自給率が100%だったと言えます。幕末には人口が増えていましたが、その頃には各藩の石高も農業改革などで増加していましたから、当時の人口を支えられるだけの米の収穫量があったと想像できます。

ちなみに長州藩は表高37万石でしたが、幕末には実高が100万石だったと言われています。


また、食糧生産量の増加が人口増加をもたらすと思っている人が多いですが、そうではありません。人口増加は、食糧生産量とは関係なく起こります。それは産業革命であったり、戦乱が鎮まったり、医療の進歩や衛生環境の改善だったりが原因です。

そして、戦争が起こるのは国民に食糧が行き渡らなくなった時、すなわち食糧生産量をはるかに超えた人口を抱えるようになった国家が、他国の食糧を奪いに行くことがひとつの原因です。

第2次大戦後、日本が戦争をしていないのは憲法9条があるからだと言うのは論外として、自衛隊日米安保が抑止力になっているというのも、説得力に欠けます。

人は、自分で食糧を得られなくなった時、他人から食べ物を奪おうとします。食糧を得られなくなった集団が、他の集団に襲い掛かって食欲を満たす。

これは、人間に本能的に備わった習性なのかもしれません。