ウェブ1丁目図書館

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様式や作法を重視し過ぎて執着していないかと問うてみる

世の中には、様々な宗教があります。仏教やキリスト教のように歴史の長い宗教から、近代以降にできた宗教まで多種多様です。

どの国にも宗教があることから、人間は何らかの信仰対象がなければ心身の健康を維持できないのかもしれません。数えたことはないし、調査結果を見たこともありませんが、おそらく全世界で無宗教の人は少数派でしょう。日本人には自分が無宗教だと考える人が多そうですが、我が国では、冠婚葬祭などあらゆる場面で宗教的な儀式が行われているので、様々な宗教を身近に感じている人の方が圧倒的に多いはずです。

特に日本人の場合は、仏教と縁がある人が多いでしょう。

身近でもよく知らない仏教

では、外国人に仏教について教えてほしいと言われた場合、どの程度、仏教のことを語れるでしょうか?

僕はほとんど語れませんよ。宗派がいっぱいあるけども、どれがどういうものなのかわかりません。日蓮宗のお寺に行って、本堂の前で南無阿弥陀仏と称えてしまってる人も意外と多いかもしれませんね。

仏教のことを一般人にわかりやすく解説してくれているのが、浄土真宗のお坊さんの釈徹宗さんです。釈さんの著書「仏教ではこう考えます」は、一般人の仏教への質問に釈さんが、宗派が偏らないように一つずつ丁寧に回答しています。

そもそも、仏教とは何を目的とした宗教なのでしょうか?

それを簡単に言うと「執着(しゅうじゃく)をコントロールして苦を解体しようとする宗教」とのこと。仏教には中道という言葉があるように、こだわりや偏りをなくしていくことが苦悩を消し去るために重要ということでしょうか。

自分の勝手な都合やお願い事を仏教に押しつけるのは、反仏教的方向性だといわざるをえません。なにしろ、そのような行為はむしろ自分の執着を肥大させることになるからです。自分勝手なお願いは、また次の欲望へと連鎖していきます。もし仏様が目の前に現れ、その仏様に「商売繁盛」や「無病息災」をお願いしたとしたら、
「実はそれこそお前が抱えている苦悩の原因じゃ。なぜそのようなことを願うのか、願わざるをえないのか、そこから再出発せよ」
と、おっしゃるにちがいありません。
(53ページ)

なるほど、現在の願望こそが苦悩の原因となっているわけですね。その願望をかなえなければならないのかどうか、もう一度、そこから考え直してみると悩み事が減るかもしれませんね。

作法の重要性

仏教は、宗派ごとに作法が異なっていて、各宗派の作法に則って法事を行わなければならない。

多くの人がそう思っているはずです。作法をいい加減にすると罰が当たると。

もちろん宗派に合わせた様式や作法に則った方が良いのですが、同書を読んでいると、様式や作法そのものが大切なのではないように感じます。釈さんによると、しぐさやふるまいの美しさは、「相手を思いやる心」と「自分の行為や言葉に鈍感じゃない感性」に根差しているのだとか。

たんに「これが正式なんだ」とふるまうのではなく、あくまでも自然にさりげなく、ことさら相手に気遣わせることなく、かつ美しくふるまおうとする精神のたまものです。正式に作法を守っているからといって、それがかえって鼻についたり、相手に気遣わせたりしてしまっては、これまた無作法なのです。
つまり、カタチとしての「礼法レベル」を超え、相手を思う心が自分にとってナチュラルな状態となったとき、「しぐさやふるまいレベル」へと成熟するということです。ここにも、「あるがまま」「自然」を重視してきた日本仏教の傾向を見ることができます。
(205ページ)

物事の本質を理解した上での作法が大切なのでしょうね。ただ正式な作法に則ったしぐさをすれば、それで良しとはならず、相手への気遣いがなければどんなに正しい動作でも無作法になってしまうことを意識しておいた方が良さそうです。

形式でもめる

仏教に限らず宗教では、時に個人の信仰と家の信仰が対立する場合があります。

女性が嫁げば嫁ぎ先の宗旨に従わなければならない。仏壇に宗派の異なる位牌を並べてはならない。

このようなことは、現代日本でも問題になることが多いと思います。このようなもめ事が起こる原因は何なのでしょうか?

「宗教を信じるからもめるんだ。だから、もめ事を起こさないためには無宗教であることが大切だ」

その考え方もありでしょう。でも、現代日本の家庭で起こっているもめ事は、信教の問題ではないように思います。仏教は執着をコントロールして苦を解体する宗教なのですから、各人がこだわりを持つことがもめ事を作っており、家庭でのもめ事は仏教とは異なるものだと考えられないでしょうか。

女性が嫁ぐと嫁ぎ先の宗旨に従わなければならないと主張し、宗旨替えを迫るのは執着ではないでしょうか?宗派が異なっているから、この位牌は仏壇に並べないというのも執着ではないでしょうか?お墓が必要かどうかの問題も同じでしょう。

仏教では、信仰のあらわれであるならお墓も大切なものであるが、執着するくらいならないほうがよい、そう考えます。葬儀や埋葬や墳墓は一大事ではない、世間の習慣に沿ってやればよい程度のもの、というのが仏教の立場なのです。
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形式を重んじようとすると、かえってもめ事を作ってしまいます。宗教が原因でもめ事が発生しているのではないでしょう。

仏教は執着をコントロールして苦を解体する宗教。

形式にこだわり、それを他者に押し付けることは執着のあらわれと言えないでしょうか?他者批判をしたくなるのも、自分の中で作り出した形式に他者がしたがっていないからではないでしょうか?

もめ事の多くは、自らの執着が起こしているのかもしれませんね。