ウェブ1丁目図書館

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戊辰戦争の勝者と敗者の違いは政見の異同のみ

1発の砲声が正月気分を覚まさせた。

暮れから不穏な動きがあったものの、正月くらいは楽しく過ごしたいと思っていた民衆にとって、年明けから戦争が始まるとはいい迷惑だ。

慶応4年(1868年)正月3日の夕暮れ時。京都の南の鳥羽で、薩摩藩幕府軍の隊列に向かって大砲を撃ちかけたことから、1年半に続く戊辰戦争が始まりました。初戦の鳥羽伏見の戦いは、薩長を主体とする新政府軍が勝利し、敗れた旧幕府の15代将軍徳川慶喜大坂城を出て海路江戸へと逃げ戻りました。

選択可能な3つの政治体制

前年10月に徳川慶喜は、大政奉還を行い政権を朝廷に返上しました。ここに260年続いた江戸幕府が終わりを迎えます。

明治維新史を専門とする佐々木克さんは、この時、徳川慶喜には3つの選択肢が用意されていたと著書の「戊辰戦争」で述べています。

第1の選択肢はこれまで通りの幕府路線の維持、第2の選択肢は公議政体論を現実化した諸藩連合政権、そして第3の選択肢は自らがすべてを投げ出すというものです。第3の選択肢は、薩長から見ると討幕となるので徳川慶喜がこれを選ぶことは考えられません。また、幕府の独裁も世論が許さないであろうから第1の選択肢も選ぶことが難しいです。

そこで徳川慶喜が選んだのが第2の選択肢です。政権をいったん朝廷に返上し、列侯会議で主導権を握れば幕府の崩壊を避けられると考えたのです。

しかし、薩長はあくまでも討幕にこだわり、慶応3年12月8日に王政復古の大号令を下しクーデターを決行して、同日に行われた小御所会議で徳川慶喜に辞官納地を命じました。ここで徳川慶喜は耐えます。公卿たちでは政治を行うことができず、そのうち自分に泣きついてくると考えたからです。

徳川慶喜の余裕の態度に薩摩藩大久保利通と公卿の岩倉具視は焦り始めます。そこで、薩摩藩は江戸で強盗や放火を行います。これに対して、警備していた庄内藩薩摩藩江戸屋敷を焼き払いました。

これが、先に手を出したのは幕府だという討幕の口実となります。そして、薩長両藩は鳥羽伏見で旧幕府軍と戦い、錦の御旗を掲げて自らを官軍だと世間に知らしめたのです。

恭順と敗戦

鳥羽伏見の戦いに負けた徳川慶喜は、上野寛永寺で謹慎し恭順の意を示します。

武力討幕路線を変えようとしない薩長両藩でしたが、幕臣勝海舟西郷隆盛の会談で江戸城無血開城が実現し、徳川慶喜は極刑を免れました。ところが、幕府のために働いた会津藩に対する処分は重く、藩主の松平容保が戦う意思はないと伝えても死を免れられない状況でした。

そのため、会津藩に対する厳しい処分に反対の東北諸藩は、奥羽越列藩同盟を結び薩長両藩と戦うことを決意します。しかし、武器の性能の差から東北諸藩は戦いに敗れました。

また、幕臣榎本武揚も江戸を脱走して函館に新政権を樹立しようとしましたが、薩長両軍との戦いに敗れ、1年半続いた戊辰戦争は終わりました。

公約を掲げた政党と同じ

戊辰戦争は、新政府軍と旧幕府軍の戦いとされていますが、佐々木さんはそうは見ていません。

東北諸藩が奥羽越列藩同盟を結成して戦ったのは、自分たちの政治理念を掲げるためでした。決して、天皇を頂点として会議で物事を決することに反対だったのではありません。

同盟諸藩は大政奉還から王政復古にいたる政治過程の現実を認めていた。それは会津藩といえども承認していることで徳川幕府の復活を求めてはいない。同盟諸藩が反対したのは薩長倒幕派によるクーデター方式での王政復古とその方法なのであり、鳥羽・伏見戦争の<朝敵>処分方法なのであった。つまり討幕派―一政治勢力の専制を否定しているのであった。
(216ページ)

つまり、薩長も新政府のもとでは一政党にすぎず、そして、東北諸藩も同じように政党だということです。政党間で掲げる公約は違います。それを会議で調整していこうとするのが、これからの政治だと東北諸藩は考えていたのですが、それを薩長が認めなかったため1年半に及ぶ戦争となったのです。

箱館に脱出した榎本武揚も東北諸藩と考え方は似たようなものでした。

しかし、独裁体制を築きたい薩長は、他者の考え方を聞く気はありません。武力で屈服させ、政治に口出しさせないようにすることが重要だったのでしょう。

戦後、新政府は東北諸藩の処分を寛大なものとしました。戦前は会津藩を厳しく処分しようとしていましたが、戦後は領地替えと家老の死罪で済ませています。他の東北諸藩も削封されましたが、処分は比較的寛大なものでした。佐々木さんは、「天皇―政府の寛大さと慈悲深さを示して自らを美化する必要」があったからだと述べています。このように考えると、戊辰戦争薩長のパフォーマンスだったように思えますね。

後に平民宰相と呼ばれた東北出身の原敬は、戊辰戦争は「政見の異同のみ」と述べています。

原敬が声を高くして訴えたかったのは、南部(盛岡)藩も勤王の志があったのだが、戦争に敗れたため賊軍とされてしまったのだ、ということではない。ただ一つ、戊辰戦争は「政見の異同のみ」にあったのだというところにある。たんに政治的見解を異にしただけのことで、それは原の政敵山県有朋や、反対党の憲政本党との政治的対立と同じようなものである。相対立する双方は同列で、一方が勝利したからといって敗者を処断できるすじあいのものではない。だから敗けたことをいつまでも恥たり卑屈になることはないのだ、と説いていたのである。
(221~222ページ)

公約を掲げて選挙に出馬した候補者が、落選したからと言って処罰されるのはおかしいです。戊辰戦争も、現在の選挙と同じで、薩長党、奥羽越列藩党、箱館新党が公約を掲げて戦っただけで、敗者を処罰すべきものではなかったのです。

戊辰戦争は、薩長が藩閥政府を作るために始めた戦争だったのかもしれません。東北の発展が遅れただけで、何らの利益も産まなかったように思います。

戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))

戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))